結局のところ、面接って運ゲーな気がする。
本日、面接を受けてきたのだが何か拍子抜けをした。
30分未満で面接が終わったのだ。
大きな企業であるために応募者も多く、効率よくやるのが必要なため、しょうがない事と思うが、これで落ちてたらやりきれないなとも思った。
今日選考官を務めていただいた方とは、とても相性が良かったと思う。話しやすかったし、あちらも僕の回答や質問に対して好意的に返事をしてくれた。
それでも落とされる。これが現実である。
面接官とのコミュニケーションを心がけ、会話が盛り上がっても落とされる。
自分の本質や本音を伝えても落とされる。
一方で、適当にうそぶいて、本心でないことを言って選考を通過したりすることもある。このように自分をウソをついて通過した時の違和感は半端ない。
「この人たちは、そんなのも見破れなかったのか。」という残念な想いと、「自分が通過するための度量が報われた。」という安堵の想い。
二つの異なる感情が練り動く。
この事象からも、社会の適当さ・不公正さを感じる。それらの存在を否定してきた教育への恨みを抱くときもある。なんで隠した。
学校では罰さられる奴も、社会になると放置されのさばる。時には、時代の人として取り上げられる。
逆に、学校で評価されていた奴、絶対的に守るべき「正しさ」があると信じて、決まりに従っていただけの生徒は社会に出たら、適当さや不公正さに押しつぶされる。
そんな悲しさを感じる。
会話が盛り上がったのに、落とされる。人を信じられなくなる。笑顔が怖くなる。
私の場合、持ち駒も少ないのでウソをついてでも内定は欲しいものである。
労働条件ややりがいがボロボロな会社で働きたいと思う人は少ないだろう。
私の場合、誰かに使い続けられる。というのは辛抱ならない。
力をつけて自分の力で、主体的に働きたいと思う。
最初からそれが出来ないことぐらいわかっている。
一生かけてもできない可能性も十分にある。
誰かの下にいながら、誰かのリーダーになる事もまだ経験したことなどない。
まずはそこから始めたい。
話はそれたが、30分の会話でこれらの考え方や素質を私は伝えられたのだろうか。
自信はない。話は下手な方だし、答え方をまずったと思うシーンもいくつかあった。私の話す言葉自体は、「うちとは合っていない」と大企業に判断されてもかまわないものかもしれない。
悲しいものだ。
考えはベンチャー寄りだが、本質や特性は大手向き
ベンチャーでは本質を見抜かれて落ち、
大企業では言葉を信じられ、落ちる。
企業として「革新者求む」とか言っている大企業でも、実際に新卒で採用するなら今の企業体に合っている考えの人をとるのだろう。圧倒的な実力があったら別ではあるが、新卒採用にそこまで求め期待するのはナンセンスだと捉えているのかもしれない。
本日の結果がどうあれ、闘いの日々は続く。結果を出すためには何をすべきか。
いままでのように、ただ単にルールにしたがい、正攻法で努力するだけでは通じないのが社会であり、就職活動である。
人を利用できる人が結果を出せるし、他人に迷惑をかけられる奴が結果を出す。
これは日本の経営者をみればわかる。たしかに素晴らしい人間性を持ち合わせている方もいるであろうが、大半が残業代を渋ったりするような方々だ。
目的のためには手段を選ばない。大きなの成功のために、少数や弱いものに犠牲を押し付ける。これはしょうがない事だとわかっていても、人としての「正しさ」みたいなものが評価されると信じて生きてきたものとしては、悲しすぎる真実である。
面接が本質的ではない、相手のことなど理解できないとわかっていても、それ以上に妥当な判断方法が見つけ出せていないのも、同じ悲しさを感じる。
世の中には正しい方法などない。妥協し、だましだまされ成り立っているのである。
それゆえ面接などに正しさなどないし、正攻法もない。運ゲーなのである。
そんなことが分かったところで、自分で考え、行動し続けなければならないことに変わりはない。
それでは。